神を信じると心は動じないが、それでいいの?|人としてのタフさは悩みながら身に付くものなのだ

上手くいかない時は何をやってもパッとしないものです。

プライベートでゴタゴタして、職場に出社したらそこでもトラブルに巻き込まれる。

まさに『弱り目に祟り目』ですね。これが続くと心が病んでくるんです。

物知りの友人に相談してみると、「それって厄年なんじゃないの?」との事。

前厄、本厄、後厄とあって、更に詳しく調べてみるとまだまだ家相とか方位相とか前世が絡んできて身動きとれなくなってくる。お寺に行ってみるとありとあらゆる種類の不吉な厄が一覧表になって掲示されています。人の恐怖心を煽る程の迫力はありませんが、「万が一にそなえて厄払いを」的な気持ちに持ち込む力はあるように感じるのです。

前厄、本厄、後厄なんて信じなければ怖くない

厄払いは深く日本人の心に浸透していて仏教由来と勘違いしている人もいらっしゃるのでは??

はっきりした事は分かっていませんが、どうやら陰陽道からきているらしいんです。時は鎌倉時代あたりまで遡ります。

厄年になるとお寺で護摩を焚いてもらって厄払いするでしょ。その後にお札も貰える。
でも厄に関するお坊さんの見解を聞いてみると、意外な回答が返ってくるんです。

「厄払いをして気持ちが落ち着くのなら、やった方がいいですね。変なものに集中力を奪われずに済みますから」と。

つまり仏教には、年齢によって災厄に見舞われるなんて教えはないんです。でも、厄年という観念が日本人の間に深く根を張っているのも事実。だったら、そのマイナー思考を払拭するために厄払いとして護摩をたくのも一案ですよ、と言っているんです。

気にしないのなら、わざわざ厄払いなんて必要ないと言っている。

つまり信じるか、信じないかの違いだということなんです。

 

泥臭く試行錯誤するのが成長の原点

 

面倒な事に巻き込まれてしまった。
そんな時、
「自業自得とはいえ、かったるいなあ」とため息をつくのも

「クッソー、流れ弾にあたっちまったぜ!」と壁を蹴り飛ばすのも

「神が我々を試すために敢えて厳しい試練を与えた」と十字を切るのも本人の自由です。

どういう気持ちで問題に対処するかは単なるモチベーションの違いなんです。
問題の原因はともかくとしても、それを放置しておくわけにいかないから自分で何とかするしかないんです。ただそれだけ。

最初は問題にそっぽ向いて「どうにでもなれ!」と思っていても、結局、日本人って自分で自分を騙し騙し前に進んでいくでしょ。「なんで俺がやらなきゃならないんだ??」とブチブチ愚痴りながらも対処する。
それも後で思うと人生経験なのです。
自分が蒔いた種だったとしたら、「天に唾した結果がこのザマか」と社会勉強にもなる。

手を出さずに暫く静観しておくのが得策かもしれません。
わざわざ面倒にのめり込まない作戦をとるのも一案だと知恵をつけることにもなる。

ケースバイケースでこんなふうに泥臭さく対応するのが人生というものなんです。

信じる心の強み

敬虔なクリスチャンの方って耐えきれない不幸に見舞われたとき、これは神がお与えになった試練なんだ、と自分の気持ちの転換をはかります。

それこそ「神も仏もあったもんじゃない」っていう理不尽極まりない出来事に見舞われたときこそ、真の人間性が現れると自分に言い聞かせ、神様はその人の本性を見極めるよいチャンスなんだとお考えになったのだと気持ちの切り替えを図るんです。

わざわざ辛いタイミングを見計らってトラブルに引きずり落としているのは、神様に何かお考えがあるにちがいないとまで自己暗示を掛けるんです。

「神は我々に何かを気づかせようとしている」と勝手に思い込んで気持ちの落ち込みを避けようとするんです。「もしこれに耐えてしっかりと解決ができれば、そのとき神様が何かのご褒美をくださる」みたいない気持ちの乗せ方をするんです。

問題が起こって(実際の厄介事だったり、メンタルに突き刺さる辛い経験だったり)、それを「そもそも誰の責任なんだ?」とか「なぜこんなふうに事が複雑にからまる?」とか「もっと効率的な解決方法があるかもしれない」とかもがき苦しみながら乗り越えることで、経験値や対処能力が上っていくんです。

当たり前の事だけど、そういう矛盾を思いつつ解決していくところに進歩の芽があるんです。
でもクリスチャンの人って、すぐに神を登場させてくるでしょ。

なぜ?

そんなに神様が好きなの??

その答えは、神様に支配された生き方の方が楽だからなんです。
神様中心に動く方が「ここで踏ん張って解決すれば、その経験が自分の財産になるんだ」と自分に発破をかけてモチベーションを上げるよりも、神が与えた試練なんだと思った方が損得や善悪の判断もいらなくて気持ち自動的に動くんです。

神のご加護という目に見えないスピリチュアルな世界に入り込むみたいな心地よさをともないながら対処にあたることができるんです。

ちょっと都合の悪い事が起これば「神が与えた試練ととらえ、精一杯対処する」といういかにもピュアでイノセントな雰囲気に酔いしれるわけです。

理不尽な問題に舞い込まれて、嫌な思いをしながら、「二度とこんな目にあうのは御免だ!」と恨みがましく思うよりも、苦労しただけ神様がスピリチュアル通帳に課金してくれていると思い込む自分暗示です。

 

実社会でもまれてたくましくなる

「神様が与えた試練」が醸し出すイメージってどんなでしょうか。

厳しい環境と血の滲むような努力??

もっと、ぬるい感じかするんですよね。

全知全能の神が高い頂きに座って下界眺めながら、細い棒切れで人々に軽いいちょっかいを出しているイメージ。
クリスチャンにとって神様は絶対的な存在です。

新興宗教だったら教祖様、ヤクザの世界なら組長です。
誰も逆らえない。

これってある意味、疑いをかける余地がないからかえって迷いがなくて楽なんです。言っていること全て正しいと思って生きているから考える必要がない。逆らうって発想そのものがないんです。

クリスチャンが悪い行いをしてしまったら、全てドロを吐いて懺悔すれば許されるっていう価値観ですね。それを神が認めているから楽なんです。

何かの困難にぶつかれば、神が与えた試練だと自分に言い聞かせて耐える、努力する、問題解決する。

試練そのものとしっかり向き合って、そもそもその試練が解決されるべき問題なのかを見極めるという努力など必要ないんです。

そこには社会でもまれてたくましくなるのとは真逆な一方通行的な世界感が広がっているのです。

面倒な悩みから抜け出すには宗教って意外に楽な道なのかもしれないんですよ。そう考えると、クリスチャンとして残りの人生を送るのも、まんざら悪くはないように思えてくるのです。

     【広告】

関連記事

     【広告】

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*