夕方から夜にかけてもの悲しい気持ちに取り囲まれるのはなぜ|その原因は日本独特の文化にあった

夜、その日いちにちの出来事を振り返ってみます。

良かった事が3つ、悪かった事が1つあったなあとザックリ思い出したりします。

良かった方が3倍も多いのに、なぜか気持ちが浮かないんです。

良い悪いの深刻度にもよりますが、夕方から夜にかけてどこかもの悲しい悲観気味な気持ちが胸を押さえつけてくるんです。明日はいったい何か起きるのだろうかと不安な気持ちにもなってくる。

ちょっと心配性のアナタ。

でもアナタだけじゃないんですよ。多くの日本人って恵まれた生活を送りながらも心が穏やかじゃないんです。

ここでは心配性の方々がリラックスする為に必要な考え方のクセの改善について解説させて頂きます。

 

もの悲しさは日本人の特徴

 

日本人で自分を楽観的だと考えている人は半数に満たないんですよ。自分は心配性だと思っている方の方が多めなんです。

些細な事でくよくよするというより、慢性的な気掛かり事が頭から離れない。
気持ちが100パーセント晴れず漠然と曇った状態が続くのです。

 

日本って治安も良いし、サラリーマンなら年に一回は健康診断を受けているでしょ。生命に脅威が及ぶようなケースなんてほとんどいないんです。

それなのに心が穏やかでいられないんです。

これってなぜなのでしょうか?

 

刷り込まれた不安

 

ひとことで言って、求められる姿が堅苦しいんです。

遊びが少ない。

人それぞれの個性を出し過ぎるのが良しとされない文化が根付いているんです。

全体の足並みを乱すのが嫌われるのはモラルとして分からなくもありませんね。他人に迷惑をかけてはいけないというキッチリした性格です。

でも「得意不得意は人それぞれ」というバラつきが許されづらい閉塞性があるんです。

理数系の科目はダントツで優秀なのに漢字が極端に苦手とか、歴史に全く興味が持てないとなると肩身が狭くなるんです。

全部の科目である程度のレベルでのスコアーが出ないと許されないんです。

 

単独行動よりも協調性

 

日本人の好きな言葉に『みんなで力を合わせて一致団結』というものがありますね。一つの目標に向かって協力体制を組んで進んでいく。スピードを合わせフラフラせずに方向をしつかり定めて突き進む。

見ていて気持ちがいいわけです。

「しっかりとやっているな」と周囲にも安心感を与えるわけです。

メンタルの一番深いところに一致団結がする込まれているのが日本人なんです。

子供の頃から学校教育で『人の振り見て我振り直せ』を繰り返し教え込まれます。

北朝鮮みたいな高圧性はありませんが、事あるごとに何度も何度も言われ続けるから他人と差異があると不安を覚えるように脳が作り上げられていくんです。

人と同じであることが正解で、ズレているとどこかに落ち度があるに違いないと感じるようになってしまうんです。

ある組織に所属すれば、その色に染まるのが一番の安堵で、目立ち過ぎてはいけないと空気を読むのです。

目立っていいのは、人を笑わせるピエロ役だけなんです。

突出した能力があったとしても、そっと目立たぬようじわじわと発揮するのがマナーです。

反対意見は控え目に相手の顔色をみながら、機嫌をそこねないように弱めに異議を申し立てる。

 

メンタルヘルスをパワハラが阻止する

 

電通で度を過ぎる残業を強いられ高橋まつりさんが自殺して5年くらい経過するでしょか?

当時電通はマスコミに叩かれ、世間の目を気にしていっときはビルの照明を夜の一定時間になると強制的に落とす反省のカモフラージュをしていたみたいですが、実際には相変わらず腐った会社のようです。

企業向けにメンタルヘルスの指導をする臨床心理士の方の話しでは、今でも電通のパワハラとド残業文化は健在とか。

このパワハラの横行を下支えしているのが、前述の悪しき日本文化に思えてならないのです。

「みんなこれくらいの残業、当たり前にこなしているよ、オマエには無理なのか?」という脅しです。

『みんな』と言われるとやらざるを得なくなる。

みんながやっているならパワハラではないのか、とも思えてくるんです。

長年しみついた全体主義的な呪縛に日本人はいまだに憑りつかれていて、ブラック企業はそこに上手くのっかっているように思えるのです。

アメリカ人みたいに「オレはオレ、別にそれでいいじゃん」とたてつく文化が日本にはないのです。

 

もの悲しい不安感

 

もの悲しい不安感は日本人独特の危機的意識だと思うのです。

群れから離れたらいけない、みんなと違った行動にでてはいけない。

その為には、常に周囲に気を配り、仲間と歩調を合わせ気に入られていなければならないと。

キッチリ規律を守り、及第点をとることで教師から認められるんです。

高評価の成績表を親に渡れば、親は単純に嬉しくなってくる。

ここに不幸への連鎖の根源があるのに気づかないんんです。

学校での生活態度や授業に対する積極性を褒められるにつれ、じわりじわりと子供の首が絞まってくるのが実情です。

優秀場な生徒。礼儀正しい生徒。

先生の期待に応えなければならないと要りもしない厄介な荷物を背負わされることになるのです。

それも学校の中だけならまだまし。

先生の口からから親へと伝わり、クラス一番、学校一番の模範生徒にでもなってしまったら引っ込みがつかなくなるんです。

子供ながらに「期待を裏切るわけにはいかない」と辛い覚悟を決める。

やがてクラス委員や学年委員に選出され模範の呪縛は延々卒業まで続くのです。

風紀を乱す生徒を注意して回る側の立場に身を置くわけです。

鼻高々の親の顔にドロを塗るわけにはいかないと、自分を常に律する不自由な生活。

 

ここで何が起こっているのでしょうか?

昼間は学校でみんなと一緒だから、周囲に自分を合わせることで安心を得られるんです(仮に模範生徒を演じていたとしても)。或る程度話を合わせていれば、仲間と一緒でいられると安堵できるわけでです。

でも、すでにマインドコントロールされてしまっています。自分の楽しみをすべて捨ててでも親を喜ばせようとするようになっているんです。

優先順位が自分の心の状態から親の笑顔へとスライドしてつまらぬ人生へとのめり込んでいきます。

愛情に満ちた親子関係の間を無理無理こじ開けて、学校からの評価が割り込んできます。

高い評価が、親子関係を歪ませるのです。

成績表を見せて親を喜ばせるのが自分の使命のようになっていく。

可愛かった我が子が、いつのまにか学校からどう評価されるかに興味が移ってしまうのです。

教師からの評価を親が気にしだしたとき、もの悲しい人生が始まってしまうのです。

親を喜ばせるという原動力は強力なんです。

そもそも自分自信が教師から認められたのがきっかけで、そのパワーが増すべ増すほど親の笑顔は大きくなっていく。これが不幸を招く根源であるなど、想像もつかない。

だから下手をすると、反抗期という名のもとで「親の期待を裏切り、自我に目覚める」という節目すらなぎ倒して一直線に進んでいってしまうのです。

「世間の目なんてきにしなさんな!」とひとこと親が言ってくれさえすれば楽しい人生が歩めたのに。

 

自分を取り戻すために

教師や親の操り人形から、もう一度自分を取り戻すに痛みを伴います。

  • 親の顔色を見ない
  • 誰からも好かれるなどあり得ない事だと信じる
  • 良い人と思われるのを止める(一時、書籍にもなった『良い人をやめると生きるのが楽になる』という考え方)

こんなアナタを見て教師は詰め寄ってきます。

「いったどうしちゃったの?いつものアナタらしくないじゃない」と。

教師にとっては模範生徒であるアナタの存在が惜しいんです。自分の片腕のような存在を失いたくないのです。

でも、それは教師側(大人側)のわがままで、子供に模範を求める事の残酷さを理解していないことの現れなんです。全校生徒の手本となるよう言い渡された子供がどれほど厳しい立場に立たされるかを想像したことすらない、イマジネーションのはたらなかい教師なんです。

「ロボットじゃあるまいし、ミスもすれば判断誤りだってしますよ。ワタシは模範には程遠い存在ですから、もう勘弁してください」と教師に言葉で返すしかないんです。

それで何を言われようが関係ないんです。自分らしく生きるためには教師が操作する操り人形の糸を切ってしまうしかないのです。
親はガッカリするでしょう。今までの虚像のアナタに誇りをもっていたのですから。
でも無理を重ねた姿に誇りをもたれても困るわけです。それこそ迷惑な話です。
ガッカリさせたって全然いいんです。親にとっては、子供が本当の幸せをつかむことが一番の幸せなんです。目先の誇りなんて無視していいんですよ。

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