”アナタは何の為に生きていますか?”と問われて即答できる人などそうそういないですね。
答えられない質問を投げてきて、困った顔に付け込んでくるのがカルト宗教。
そんな時は、「幸せになるために生きている!」と力強く答えてください。
抽象的な答えで切り返すのも、少し卑怯な気もしますけど正解は正解。
不幸になろうと思って生きている人なんていないんですから。
“幸せになる“を具体的に上げ連ねると、答えのバリエーションは宇宙規模です。
でも、そのわりには幸せを実感できていない人も大勢いるのが現実。
実感しづらい“幸せ”を手繰り寄せるにはどうすればいいのかについて解説していきます。
幸せになるためには大きさを求めてはいけない|比較したらつかめないんだ
あの人よりも自分の方が幸せ
そんなちっぽけ幸せ、要らない
どうせ自己満足でしょ
恵まれすぎてて実感できない
高望みし過ぎ
しょせん親からもらった幸せでしょ
幸せを含むフレーズを少し思い起こすだけで、こんなに出てくるんです。
まだまだ、幾らでも出てきますよ。
この中で”自己満足“って結構鋭い指摘です。
「そんなのただの自己満足じゃないか。もっと大きな幸せをつかみに行けよ!」
例を挙げると;
甲子園出場で満足しないで、プロを目指せよ
料理を趣味に留まらせないで、店を出して勝負してみろよ
音楽の先生も悪くはないけど、海外の交響楽団でやっていけるでしょ
人が書いた本ばかり読んでないで、自分でも何か書けるんじゃない
政治家の批判ばかりしてないで、立候補して引っ張る側に回ればいいじゃん
こんな具合に“一回り大きくなれとか、一歩踏み出せ”って提言されちゃうと、そっちの方向になびいてしまうかもしれない。
結果、大成功を収める可能性もあるんです。
でも、ここが試案のしどころで、“自己満足と言われる範囲内”に留まるのも幸せの秘訣だったりもするんです。
かつての甲子園児が大人になってサラリーマンしながら、土曜日と日曜日に少年野球チームの監督をする。
夜はビールを飲みながらプロ野球を観戦して、“やっぱりプロは凄いなあ”ってかつての自分のプレーを思い出す。
こういう幸せって有りだと思うんです。
むしろ、これを幸せと言わずに、なんと言うの?って感じでしょ。
マックスじゃない妥協的幸せとは
おじいちゃん、おばあちゃんがになると涙もろくなるでしょ。
ちょっとした親切だけですごく感謝してくれる。
オレこの前、時差通勤で電車に乗ってたら、目の前のシートに腰かけたおばあちゃんがゴホゴホ咳をしていて苦しそうなの。
こんな時期だから周りの人も目も気にしていて、気まずそうだけど咳は止まらない。
で、オレ、カバンの中ゴソゴソとかき回して、スース系の喉飴を1個、おばあちゃんにあげた。
それだけで凄い感謝するんだよね、老人って。
手とか握られちゃってさ。
ご親切に、ありがとう、つて何度も言うんです。
その時オレ、“あのおばあちゃん、今日一日くらいは幸せな気持ちで過ごしてくれるだろうなあ”って思った。
ちっぽけだけど、なかなかいい幸せ感でしょ。
“もうこれだけで充分幸せです。こんなに恵まれてて本当に幸せです。”
こういうセリフもよく耳にします。
相対的にみて今までの人生よりも格段に恵まれている。自分にはもったいない。
そんな雰囲気の感謝の言葉ですね。
“高望みはしません”っていう幸福感で、“これ以上を求めたらバチが当たるかもしれない”みたいな“身分をわきまえた感”がある。
『水戸黄門』で、悪代官に法外な年貢を求められていたお百姓さんが、黄門様一行に助けられて、平穏な生活を取り戻した。こんな雰囲気ね。
こういうのも幸せのバリエーションの一つで、平凡だけど家族が一致協力して生活していく、つていうパターン。
この幸せを選択する理由は、“幸運の有限説”に則っているんです。
高望みしすぎるとバチが当たる、とか、幸せが長続きしない、という価値観。
人に与えられた幸せはみんな一定だとうい平等感のもとで生きているの。
目標達成と全力を出し切った達成感の違い
一回り大きな目標に突き進むにしろ、その手前の庶民的な目標に狙いを定めるにしろ、目標を達成したときに普通は幸せだと感じる。
ところが、手抜きでもあっけなく目標達成できてしまうと、話が変わってくるんです。
ガンバって、そこに結果がついてくれば自己肯定できるけど、手応えなく目標だけを達成してしまうと実感がわかないんです。
むしろ目標達成ならず、でも全力を尽くした。自分がやってきた全てを出し切った、という方がむしろ幸せに感じるものなんです。
この観点からいうと自己肯定というのも幸せを求める際のキーとなる。
歪んだ自己肯定感とは
自己肯定をもとめてさまよった結果、つまらないポジションに落ち着く人がいる。
自分のスタイルが見つけられない人は自己肯定感が持てないから、幸せとは程遠い不安に取り囲まれてしまうんです。
高望みしないで地道に生きる幸せや、一歩踏み出すチャレンジ精神の幸せに思いをはせてみても、しっくりいくところが見つけられなかった。
立ち位置もわからないから目標がさだまらないんです。
なにを目印に進んでいけばいいかもわからない。
そんなときにハマるのがフィクションの世界の人物への自己投影です。
ドラマの登場人物に自分を重ね合わせて、どことなく仕草を真似たり、喋り方を真似たりしてみる。
すると、そのキャラクターに自分が収まったかのような錯覚から自己肯定感がでてくるんです。
偽物の自分のキャラのまま何年も何十年も過ごし、ある日突然空虚だったと気づくのです。
まとめ
幸せの形は人によってさまざまで、他者から否定されたり意見されても、気にする必要などないんです。
客観的に大きい、小さいはあるかもしれない。
でも本質は当の本人にしかわからない。
自己肯定は人間の幸福感に関するキーワードで、文字通り自分を認めるのが幸せと直結しているんです。
自己肯定が目標達成によってもたらされる場合と、逆に目標達成してもあまりの手応えの無さから、自己肯定に及ばないこともある。
むしろ、達成でなかったけれど全ての力を出し切った事で、これでよかったのだと自己肯定を感じ、幸せを味わうことができる。
いずれも場合も生きるスタイルを自分自身で認めることができたとき、自己肯定に結びつくのだ。
だが、散々努力したにも関わらず、自分のスタイルを見出すことができない人が存在する。彼らは、現実とは別のテレビドラマやアニメの登場人物におのれを重ね合わせ、仕草や声色を真似ることで自分の立ち位置をキープし続ける。
そして、ある日突然、虚しさを感じてしまうのです。
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