マザー・テレサは亡くなる何年も前にから“神は本当に存在するのか?”という疑念を抱いていたんです。
あの、“マザー・テレサが?”って意外に思うでしょ。
その疑念を持ってしまった事に、自己嫌悪を抱き物凄く悩んだの。
あんなに気丈な女性がね。
我々日本人の大半が無宗教じゃないですか。だから、神がいると信じている人はあまりいないですね。
だから、キリスト教に人生を捧げていながら、神の存在を信じきれなかったマザー・テレサの苦しみは想像でいないの。
別に、神なんていてもいなくても、どっちだっていいじゃん、みたいなオレみたいのとは全然違う。
ここでは、人にとって神の存在は必要であるかについて考えてみいと思います。
絶対神がアメリカ人を支えてる
アメリカは、移民を除いたほとんどの国民がキリスト教徒でしょ。
神心深い人は日曜日には欠かさず教会に行って神父様の話を聞くんです。でも、現代社会じゃ、そこまでキリスト教に傾倒している人は稀なんです。
だとしたら、キリスト教徒のアメリカ人の何パーセントくらいが神の存在を信じているのだろうかって思うでしょ。
で、オレ暫く前に、アメリカ人には必ず質問することにしたの(今は、自分なりに結論がでたから質問しませんが)。
「あなたは神が存在すると思いますか?」って。
その質問に対して、ほぼ100%のアメリカ人が、神は存在すると答えるんです。
これって、ちょっと驚きでしょ。
で、どんな姿をしているのか?って少しでも具体的な質問になると、“I don’t know.”なんですよ。
姿なんか全く想像もしないけど、神は必ずいる、って思っているわけです。
日曜日に礼拝にも行かない、食事の前にお祈りもしない、そんなアメリカ人でも神の存在を信じているの。
神の存在に疑念を抱いたマザー・テレサと、何の根拠もなく“神は存在する”って言い切るアメリカ人とでは、キリスト教に費やすエネルギーや時間が全然ちがうでしょ。
後者の、根拠なく神の存在を信じるアメリカ人は100%家庭環境によるクリスチャンで“親や兄弟もクリスチャン。深くは考えないけど神は存在する”って主張しながら生きているんです。
クリスチャンの信仰心ってそんな程度なの?って思うかもしれないけど、現実はこんなものなんですよ。
神聖なるカトリック信者なんて逆に少ない。
ほとんど日本人と変わらないってところなの。
悩んだとき、すがる物があるとしたたかになれる
それでも壁にぶつかったとき、すがるものがあるとメンタル的に違いますよね。
ちょっと頑張れば乗り越えられるような試練じゃなくって、いくら頑張ってもどうにもならないような厳しい壁。
心が折れてしまって何を信じていいのかわからないとき、宗教ってやっぱり頼りになりますね。
神様って絶対的な存在でしょ。
「神様が与えた試練なんだ!」って思うと歯をくいしばって耐えるものね。何度酷い目に遭っても、この先に良い事がまっている、って気持ちになれるんです。
ハッピーエンドが約束されている雰囲気があるでしょ。
信仰心の弱いアメリカ人あたりが一番良いとこ取りしているんです。何をやらかしても、最後の最後には神様が救ってくれると思っているからね。
絶対的なパワーを持つ神が自分の味方に着いてくれていると思ってますから、奴らの精神力は強靭なんです。
すがる物があると本当に楽なんです。
宗教を仕事にする辛さ
お坊さんとか、神父さんとか見ていると“誰のためにお祈りしているの?”って思う。
もともと仏教には神はいなかったけど、歴史の中でお釈迦様が神みたいな存在になった。仏陀ってお釈迦様の敬称なんです。
キリスト教においてはイエスを神とする考えと、もっと溯ってユダヤ教のヤハウェが神だという考えかたがあるの。
アメリカ人に“あなたが信じる神様ってどんなもの?”って訊くと、神は神で姿形は分からないってみんな言う。
フライドチキンの神のカーネル・サンダースとか、サンタクロースみたいなおじいちゃんじゃないって断言するんですよ。
でも、キリスト教における神はイエスかヤハウェのいずれかしかなくて、そんな事も知らずに“神は存在する”って断言しているアメリカ人に、たいした信仰心がないのがわかるでしょ。
彼らは本当に都合よく宗教をとらえているんです。
キリスト教徒であることは全然難しい事じゃなくて、ただ何かある時だけ十字を切ればいい、みたいなところあるでしょ。
その一方で、絶対的なメンタル面でのサポートを得られる。コスパ的には最高なんです。
(逆に新興宗教はコスパ最悪だからね!)
その一方で、キリスト教の神父さんは徹夜で祈り続けたりするじゃない。
聖書を何度も何度も読んで祈り続ける。
あれくらい一生懸命の人がいるから、キリスト教としても箔が付いてくる。
ローマ法王を取り巻く階級とか階層も、もともと人間が考えたもので、それを神聖なものとして気高く扱う。
それがどんどん高まっていくから、キリスト教そのものがパワフルになるの。
言い方は悪いけど、ある種『裸の王様』的なところがあるでしょ。
信じる者は救われるとかって言ったって、ダメなものはダメで、人間はいつか死ぬし、事故で明日に死んでしまうかもしれない。
でも、そんな事を言ったら徹夜で拝んでいる神父様の立場無いじゃない。
キリスト教の実も蓋も無いってことになる。
だから仕事として熱心に拝み、いつの間にか自分自身をマインドコントロールするんですよ。
マザー・テレサみたいに、ふっと冷めた目で世の中みたときに、神様なんていやしねーよって思ったりするんじゃないの。
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