心に蓋、感情に嘘がメンタルを削る
自分の心に蓋をしてはいけない。自分の感情に嘘をついてはいけない。
自分への蓋、感情の押し殺しが、本当の自分を見失い、楽しさ、悲しさ、嬉しさ、切なさ、そういう心の気持ちの繊細ヒダを麻痺させてしまうと事を以前の原稿で解説させて頂きました。
日本人は義務教育として子供のころから善悪が刷り込まれています。道徳の授業や、帰宅前の一日の反省会などで些細な事でも取り上げてクラスで話し合ったりするわけです。
だから日本人に悪い人がいないのかと言えば、全然。殺人犯も窃盗犯も傷害もいます。いじめはよくない事、道徳の授業で話し合っても、一向にいじめはなくなりませんね。
でも、悪い事に手を染めた人は自分の罪に気づいているのです。悪い事をしてしまったと。
仮に気づいていなかったとしても、潜在意識が汲み取っているのです。少しずつメンタルを着ずっていくのです
「良い人をやめると、生きるのが楽になる」というフレーズがいっとき流行りました。
人に気を使い過ぎてヘトヘトになってしまっている人に贈る励ましのアドバイスです。
少しは自分勝手になってもいいのではいですか、という意味ですね。でもこれは誰に対してでも当てはまるわけではない。
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懺悔する者に救いの手を差し伸べる宗教の癒し
キリスト教には神父様に自分の犯した罪を告白し、悔い改めるという救いの場が用意されていますね。
懺悔(ざんげ)というもので、映画やドラマでご覧なったことありますよね。
告白を受ける神父さんは、他言してはいけないというのがルールです。
自分の中に罪をため込んで、それでも自分は悪くないと心に蓋をしている人。自分の感情に嘘をついて、なんでもないふりをしている人。
こういう人は遅かれ早かれ精神疾患気味になっていくわけです。
清々しい気持ちで過ごせなくなるわけです。
キリスト教には、こういう人たちを救う為に懺悔というシステムを準備したわけです。
罪悪感に苛まれ、精神がおかくなってしまう前に、駆け込む先で神父さんが待っていてくれる。
それだけ、人間が弱い存在なのだと分かってくれている。宗教の癒しです。
教会内に備え付けられた小さな小部屋で、 格子窓をはさんだ父様がこちらの告白に熱心に耳をかたむけてくれる。
暗い小さな部屋で聞き手との間に仕切りがある。
告白する方は、自分の過ちを神父様に話します。
とても妻や親、兄弟人には話せないはしたない行為を、神父様に打ち明けることで、それまでかたくなに自分を騙してきた罪悪感から解放されるわけです。
言葉に出して、自分の悪かった点を認め、反省していることを口にだすだけで、気持ちが楽になるのです。
こうすることによって自分に正直に生きていけるようになる。懺悔とはそういう役割であり、そこに宗教の癒しがあるのです。
裸一貫で人生やりなおせ。そのためには財産すべてを教団にお布施として寄付しなければならない、なんていう宗教は最初からおかしいわけです。
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懺悔さえすればなんでも許される?
懺悔の話をすると、決まって「懺悔さえすれば、何をしても許されるのか?」と聞いてくる非常識な人がいます。
警察沙汰のような犯罪行為でも、神父様は警察に黙っていてくれるのか、と。
宗教者の守秘義務「宗教、祈祷若しくは祭祀の職にある者又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは」6か月以下の懲役または10万円以下の罰金に処せられます(刑法134条2項)。
「正当な理由がないのに」と定義していますね。
殺人事件の犯人が仮に懺悔してきて、教会にかくまってくれと言ってきたとしても、警察に通報するには十分に正当な理由があるわけです。
殺人犯が、故郷に残してきた我が子に一目合った後で自首したい。その数日間だけ身を隠させて欲しいと言ってきたとしたらどうでしょうか?
当然、認められません。罪は罪、いかなる理由があろうともお子を大目に見るのが宗教法人の役割ではないのです。
宗教法人は犯罪をかくまう場所ではないのです。
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