不幸な女が狂気に走る
正気の沙汰とは思えない事件を起こす人間でも、往々にして、普段はまともな人間として暮らしているものです。
腹の底に狂気がとぐろを巻いていても、表面上は親切で人当たりのよいと仮面をかぶっていたりするのです。
そんな、気さくな性格が少しずつ剥がれて狂気へと変貌していく様を大画面スクリーンに浮き上がらせて観客を身震いさせた作品に、『危険な情事』と『ミザリー』があります。
この二作品に登場する二人の女性には起源を異にする狂気が宿っています。
とはいえ、この精神構造はさして珍しいものでもなく、ごく普通に生活する平凡な人にも大なり小なり寄生しているのです。
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境界性人格障害・『危険な情事』
『危険な情事』は妻子ある男性が一晩の遊びのつもりでベッドをともにした女から執拗に追い掛け回される物語だ。
酒が入ったからといって、初対面の男と寝ること自体、普通じゃない、と思うじゃないですか。
ところが、カーリーヘアーの細身の中年女性髪が、一夜限りの関係を観る者に納得させてしまう演出が込められているのです。
人なつっこく、それでいてサバサバした性格が後腐れ無さを醸し出しているのです。
ところが、この女には一夜限りの遊びの関係が通用しなかった。
どこに行くにも離れようとしない。
ストーカーのように男について回る。
妻子がある事など全く関係ない。
彼を独り占めしないことには気が済まない。
もう、いいかげんにしてくれよ!、と直接言っても動じない。
映画を観る側は、このあたりから女の狂気を感じはじめる。
いくらなんでも、妻子ある男にそこまではやり過ぎだろう、と。
女の心情は怖いほど男に執着しきっているのです。
あたしの身体だけを求めたなんて許せない。
もっともっと近づいて、私だけの物になりなさい。
それがダメなら、殺してしまうしかない。
ひっついて独り占めするか、この世から消すか、二つに一つ。その中間は存在しない。
ここに境界性人格障害ならではのロジックがあるわけです。
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自失願望・『ミザリー』
物語の中の人物に自己投影する女、アニー。
大好きな小説『ミザリー』の著者が雪深い森で自動車事故を起こし、一人暮らしのアニーの自宅で看病するのがストーリーのメイン。
作家は連載小説『ミザリー』を終わらせるために、主人公ミザリーをストーリーの中で死なせることで結末を描き切った。
その原稿を読んだアニーが激怒する。
大好きなミザリーをなぜ死なせるのだ、と作家に悪態をつく。
自動車事故で両足を骨折した作家はベッドから起き上がる事すらできない。
家の回りは深い雪。
自力でアニーの家から逃走するのは不可能。
作家はアニーに促されるまま物語に手を加える。
ミザリーに死が訪れない展開へと舵を切ってく。
アニーが男性作家の治りかかった両足の骨を叩き折るのは、作家をともに暮らしたいわけではない。
作家への興味ではなく、物語の中のミザリーの命を取り戻してほしいからだ。
アニーは物語のなかのミザリーに依存して生きている。
生きるためには手段は得ればない。生身の人間を殺して出世を果たし収入を増やすのは何とも思わない。
いやむしろ合理的であるとさえ感じる狂った価値観だ。だが、心のよりどころはミザリーという架空の人物。
独身で、見た目もぱっとしないアニーは、物語の中のミザリーとともに生きている。
アニーは自分をミザリーに重ね合わせることで生きる勇気を得ている。
ミザリーは自分が持っていないものをたくさん持っている素晴らしい女性。
アニーの自失願望と自己否定はミザリーなしでは帳尻があわないのだ。
だから、ミザリーが小説のなかで死んでしまうなど、決して許すわけにいかない。
自己否定しつつも、力強く生きる女は誰か別の人物に自己投影しているものだ。
惨めな自分を葬り去って、赤の他人に扮して生き延びている。
だが、生身の自分が狂気へとのめり込んでいるのに気付いていない。
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