狂った価値観に騙されるな|誤った理屈をどこまで押し通すのか

Pocket

コロナ禍、限界ギリギリで踏ん張っている産業があります。

これ以上、商売が干上がれば倒産するしかない、と。

コロナウイルスの死を免れたとて、金が無けりゃ生きていかれないと間接的に死へと転がり出す人が出てきているのです。

コロナコントロールと経済コントロールの両輪と言えば聞こえはいいが、もはや経済をこれ以上停滞させるわけにはいかないと政府は踏んだのでしょう。

そこに誤りがあるか、どうかは今は判断できません。

結果論しか正解はないのですから。

でも、それならそう明言した上でGo Toを出せばいいじゃないか、とも言える。

でも、そう言ってしまったら誰もGo Toになど参加しないでしょ。

だから国は国民を騙してまでGo Toに巻き込んでいくのです。

 

コロナ感染者数の上下に一喜一憂

 

「二日ぶりに200人以下に留まりました」

こんなニュースに一喜一憂していても全然意味がないのです。

検査母数を明言せずに、“増えた減った”を繰り返えされても、なんなのって感じです。

「不満を払拭するには、アカデミックさを感じさせるのが一番手取り早いんだ。“やってます感”を出すために感染者数を連日公表しろ。検査母数なんか言わなくていいんだよ!」と政治家らが怒鳴り合っているのが容易に想像できるわけですね。

「よーし、減ってきたぞ」とか「ヤバイ、また増えちゃった」とか言わせておけばいいんだよ、と臭い物に蓋をする作戦にまんまと乗せられているのです。

毎日上がり下りの根拠なき数値を公表しているうちに、人間の感覚なんて麻痺してきます。

「いまだに高止まりで予断を許さぬ状況でございます」の抑揚のない百合子おばさまの定期会見が、のんびりとした日常感に変わってきて、新型コロナとの共存ってこんなものなのかとか半ば安堵させるのです。

 

GO TOキャンペーンしか救う道は無い

 

正しい決断なのか、狂った判断なのか?

Go Toで経済の活性化を図るしか旅行業界や旅館・ホテル産業・飲食産業を救済する方法はない、とは大きな決断だったに違いないのです。

でも、国民に対して、ここで一世一代の大博打にでたとは口が裂けても言うわけにはいかない。

東京も補助金対象に加えて、行かなきゃ損損、のムード全開で国民を焚きつけるしかない。

なんかヤバイ方向むかっているように感じるのです。

心の奥に潜むグロイ部分

 

不倫騒動や浮気騒動って男の甲斐性なのですかねー?

ワイドショー的にはダメ出しの方向に話しを進めるしかないですね。

不倫も浮気もバレなきゃいいんだ、とは言えない。

もっと明るく、「あんないい女に誘われたら、絶対やるでしょ」なんて言ったら女性コメンテーターから袋叩きにあるに決まっているのです。

せいぜい、「世界には一夫多妻という素晴らしい制度が認められている国もありますなあ」くらいなものです。

 

本当はスケベなくせして、上品を気取っているから、「昼の顔と夜の顔をたくみに使いわけるグロイ男」って事になるのです。

渡部健あたりは完全にキモい男の烙印を押されてしまいました。

お笑いのジャンルにいながら芸能界一のグルメで、立ち振る舞いも上品なタイプだったでしょ。

綺麗な奥さんもらって、二枚目路線だったじゃないですか。

グルメ、上品、奥さんは女優さん、等々が渡部健で、でも基本はお笑いですという気取らなさとか、爽やかさで自分の価値観を前面に出していたでしょ。

でも実際には多目的トイレで不倫行為をしていた。

そのあまりのギャップに世間が奇異な生き物を目の当たりにしたような驚きとなったわけです。

極度の二面性が、こいつの本性って何?って騒いだのです。

価値観は変わるもの

 

渡部健が再び芸能界で活躍しようと思ったら、180度キャラクター変更をしないと無理ですね。

今さら上品口調でグルメ番組のコメンテーターなんてできないでしょ。

渡部の味覚が本物だとしても、一流フレンチとかイタリアンの渡部のコメントなんて聞きたくもないって思うのが普通の感覚です。

不倫騒動プラス、下品な多目的トイレからは絶対に逃げられない。

だから自分が存在する価値観を見つめ直して、世間の見方とオーバーラップさせるくらいでキャラ変するしかないのです。

 

世の中の為にならない、と正義を振りかざす

 

「オレの昇進を認めないなんて頭がどうかしている。

このまま放っておいたら、この会社は世の中の為にならない。

正義のために叩き潰しておかなければならない。」

こういうロジックの組み立て方をする人がたまにいるのです。

恨みつらみを社会悪にすり替えて、自分を正当化しようとするタイプです。

知的障害者の大量殺人(神奈川県相模原市の津久井やまゆり園)で死刑判決を受けた植松聖は、知的障害者は社会に害をもたらす存在だと最後まで自分の罪を認めませんでした。

植松が犯行に至る経緯を詳しく見てみれば、知的障害者の施設職員にならずにいたら、全然違う人生を歩めていたのかもしれないと思えてくるのです。

植松聖が被害者で、知的障害者が社会悪だとは決して思えませんが、巡り合わあせが余りにも悪すぎたと感じずにはいられないのです。

教員試験に失敗して養護施設の職員に狙いを変えたのは、子供に何かを教える事を職業にしたかったからだったのです(植松の父親が教員だった)。

その準備として知的障害者での職員として働いた事が、彼の運命を悪い方向へと向かわせてしまったようにも思えるのです。

知的障害者から職員に浴びせられる口汚い罵りが植松の怒りに火をつけてしまったのです。

だとすれば、仮に健常者が通う学校の教師となったとしても、似たようなシチュエーションは起きるはずだと推測できるわけです。

ここで植松は全て知りながら、価値観をすり替えたのです。

「知的障害者から罵倒されたり、嫌がらせをされたから怒ったわけではない。知的障害者そのものが、この世にとっては悪であるのだ」と。

だから殺した。

それのどこが悪い。

自分こそが正義なのだ、と。

 

十数人を殺した植松が仮に罪を詫びたとしても、死刑を免れる可能性は万に一もない。

だったら、このまま自分の正義を貫いた方がカッコイイだろうと今のところは考えているのでしょう。

 

狂った価値観を死刑直前でも崩さずにいられるか

 

人のメンタルって二重構造になっています。

いま生きている時のメンタルと、死を迎えた後のメンタルです。

死を免れないと追い込まれた時、心の拠り所はスピリチュアルへとスライドしてゆきます。

純白の正しい精神で死を迎えることで、死んだ後の安らかさを期待するのです。

自分が招いた罪を全て認めて、心から深く謝罪し、罪の償いとしての刑を受け入れることで、もう何も心配することはないと安心感が得られる。

いま、植松は自尊心を守る為に自己の正当化で、知的障害者は社会悪だと突っ張っています。

が、いつ宣告されるかわからない処刑日を待つ恐怖と背中合わせで油汗をかきながら、いつまでその不安に耐えられるかなのです。

今さら罪を反省しても死刑は死刑だという理屈があって、それなら最後の最後まで狂った価値観を貫くのだと、カラ元気でいられるかどうかなのです。

ある朝突然死刑執行を言い渡され、首を括る直前に、『あの植松聖も、やっぱり罪がもたらす恐怖には耐えられなかった』と、刑執行の翌日の新聞記事で狂った価値観を認めた最後の姿を、知る事になるのかもしれません。

     【広告】

人気記事

     【広告】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*