何が正義なのかは、基本的にはその国の法律に則りますね。でも、自分の価値観で左右しちゃう自己中心的な人もいる。
正義ほど重宝なものはない、と時々思うのです。
津久井やまゆり園でも知的障害者の大量殺人事件の犯人、植松聖は犯行の動機を正義のためと言い切っています。
人の多くは、奴の価値観は正気の沙汰ではないと思いながらも、植松の立場にたってみると、“なるほど奴の口からは正義としか言えないか?”と、そんな殺人までの経緯が浮かび上がってくるんです。
ここでは「己の正義感を貫いただけなんだ!」とあたかも自尊心を守ったような発言の裏にある、植松聖の狂気について解説してみます。
俺の行為こそが正真正銘の正義といきがる植松聖
植松聖は確かに狂っていた。でも、精神鑑定で責任能力が無いと判断されえないのは明白です。
奴には生まれつき狂い方が内在していて、人格そのものがぶっ飛んでいるからなんです。
教師になる夢が叶えられなかったのは自業自得。で、次に目指したのが養護学校の先生だった。
養護学校の先生になる準備のつもりで、植松聖は知的障害者が集団で生活する津久井やまゆり園の職員として働きだしたんです。これがそもそもマズかった。
知的障害者の身の回りの世話をする仕事だけど、彼らから心無い罵声を浴びせられる事も少なくない。
そこで奴はブチ切れたんです。
あんな奴ら居ない方が世の中のためなんだ、と。
そこで働く職員の方々だって多かれ少なかれ、皆同じような辛い経験をし続けているんです。でも他の職員らは仕方ないと諦めていて、何を言われようが仕事のうちと割り切っているんです。
それが出来ない人には向かない仕事なの。
耐えられないと思った職員はどんどん辞めていく。これ以上いたらろくなことにはならないと先を読むわけです。
一般の会社だって同じこと
パワハラもどきの上司がムカつくとか、こんな嫌な思いをさせられる仕事はもうゴメンだ、と辞職することなど珍しくないでしょ。
仕事には向き不向きがあるし、嫌味な上司の下に配属される偶然だって実際あるんです。
“こんな理不尽続きに耐えてまで、こんなところで働き続けられるか!”と、他に移るかどうか悩んだりするものなのです。
普通の人は怒り心頭して、“やってられねー”ってところで止まるんです。
心の中では、殺してやりたいほどムカつくのに、実際には自らその場を立ち去る事で関係を断ち切るんです。
でも植松聖は「ぶっ殺してやる!」の道を本気で選んだ。
そこには、自分が津久井やまゆり園を立ち去るだけでは、腹の虫がおさまらないという強烈な被害者意識があった。
養護学校の先生になる夢までも打ち砕いた恨みがましい思いです。
人生をズタズタに切り割かれた被害者の憤慨です。
やられたら、やり返した、と言えない弱み
植松聖は腹の中で自分のやったことの重大性を充分わかっているんです。
俺は、やられたら、やり返しただけ、と。
同じ罵声を仕返しとして知的障害者に浴びせたとしても、暖簾に腕押しだろうと思っているの。
考えれば考えるほど怒りは増殖していくんです。
こっちは人生ボロボロにされたんだからな、と。
だから、思い知らせるには殺してしまうしかないんだと。
誰かが決断しなければ次にも被害者がる、という正義感
あそこの職員はみんな同じ辛い思いをしているんです。知的障害者が投げつけてくる言葉のナイフに傷付けられている。
でも、思い知らせるところまで罰せることができない。
言いたいだけ言ってやっても、こっちの罵声など知的障害者の心になど刺さりはしない。奴らは生まれつき鈍感なんだ。
一方で、何をしても知的障害者なのだから仕方ない、と社会からは許されてしまう。
こんな不条理がまかり通っていいものなのか、と植松聖の気持ちは納まるどころではないんです。他人の人生を破滅させるような存在はこの世から消えてなくなればいいんだ、と。
悪の根源など、そのままにしておくほうが悪なんだ。全員まとめて俺が始末してやると、犯行に及んだんです。
正義と言い切る為の植松聖のロジック
植松聖が心の中で構築したロジックはこうです。
「悪いことをした者には罰が与えられる。これが正義なのだ」
身の回りの世話をしてくれる介護職員に心無い罵声をあびせる知的障害者には、健常者同様に罰が与えられなければならない。だがその罰から少しも苦痛を感じないとしたら、そんなのは罰ではない。
だから殺してしまうしかない。
もちろん殺人を犯した自分だって罰を受ける。極刑だとしても、受け入れるしかない。それが正義というものだから。
こんな理屈に賛同できる者はいないでしょうね。
でも、植松聖が一方的に悪である断言するなら、検察は『知的障害者が他人に罵声を浴びせる存在で、そこに責任能力は無い』、と言い切らなければならないんです。
『言っていいことと悪いことの区別すら教育できないのですか?』と植松聖が質問してきたら、はいその通りですと答えなければならない。
『そんな簡単モラルすら理解できない者なのですか?』と言ってきたら、それが知的障害者って物です、と答えなければならないんです。
ロジックを最後まで崩さずに天国に行けるのか
植松が裁判で極刑を言い渡されても、おそらく控訴しないでしょう。
自分と世間の正義が完全にズレてるのは100%わかり切っているんです。それを承知で
自尊心を損なうことのないように、正義を前面に押し出してきた。
でも、絞首刑の日が知らされぬまま、日を過ごすうちに徐々に気持ちが高ぶってくるんです。遅かれ早かれ首を吊られ。
殺され事から逃げられないと実感したとき、メンタルの均衡がじわりじわりと崩れ始めるんです。
心を支えていた正義よりも、心の平穏が恋しくなるんです。せ殺される恐怖から逃れるためには何にすがればよいのかを考えるようになるんです。
全てを謝罪して、神に許しを請うしかない。
そこで、植松聖の正義のロジックが崩れて、神へとすがるのです。
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