「あなたは自分のことが嫌いでしょ?」と問われる人いますね。
「あなた、自分のことが大好きだよね!と冷やかされる人もいますね。
相手からどんな雰囲気が立ち昇ってきたとき、こんな二つの真逆な感想を客観的に抱かせるのでしょうか?
この原稿では、前述のような対照的で両極端な二つの人格がどんなふうに形成されてきたのかを解説しています。
許容範囲の広さ、狭さはこんなふうに言動に現れる
許容範囲の広い人は、他人の罪を快く許し、自分の罪も許すのです。
「まあ、しょうがないよ」とか「誰にだって間違いはあるさ」みたいに人の誤りをスル―しちゃうタイプは自分の誤りにも寛容なんです。
誤りやミスを大目に見る癖がついているから自分を責めないのです。自分を嫌いにならないロジックです。
*これが人間として正しいかどうかは別問題ですけど、、、。
反対に許容範囲が狭い人は人間嫌いに陥りやすいのです。
小さなミスに目をつむれないから、嫌だと思うたびにつまずいて、考え込んでエネルギーを消費するのです。
嫌な気分が自己増殖して人間嫌いへと落ちていくのです。
鼻歌を歌う人は自分が大好き
突然、検証レベルの低い仮説に話を落としますよ。まったくの持論ですが、鼻歌を口ずさんでいる人は自分の事が好きだと思うわけです。
鼻歌から連想されるのは
◆気を良くしてる
◆うわついている
◆負の感情を抱いていない
◆怒っていない
◆切羽詰まっていない
ここで「ちょっと待った!」という反論の声が聞こえてきそうですね。
「気分よく鼻歌を歌っていても、それはいっときの精神状態で、自分が好きだとはかぎらないじゃないか!」と。
確かに、その可能性は否定できません。
でも、自分が嫌いなタイプと鼻歌はどうしてもリンクしなのです。鼻歌と能天気はどこは通底していて、自分大好き人間に思えます。
かといって他人にも優しいかというと、そこは100%別だと断言できますが。
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自分嫌いを引き起こすのは劣等感で、悲劇のヒロインがそれをひっくり返す
あえて解説の必要はないのでしょうが、自分嫌いを引き起こすのが劣等感なのはご存知ですね。
「おまえはダメな奴だ、頭が悪すぎる、役に立たない、ほらxxxと比べてこんなにも劣っているじゃないか」と子供の頃から批判され続けると、劣等感が深い傷となって心に残ります。
この劣等感から逃れるには正しい方法と、正しくない方法の二つがあります。
正しい方法とは劣等感を抱かせた幼少期の記憶から解放されなければなりません。思い出したくない辛い記憶と真正面からから向き合って、責められ続けた幼少期を大人になった今思い返えすのです。
子供の頃は跳ね除けられなかった謂れのない非難やいじめに対して、今なら反論できるじゃないですか。
子供だから卑怯な人たちからコントロールされてしまったけれど、今なら正しい判断ができるのです。
「ダメなのは自分じゃない、あんたの方だ!」と言い返せるのです。
幼い子供のメンタルをもてあそんで、コーナーに追い込み、繰り返し攻め立てるような大人は、理由がなんであれ弱いもの虐めしかできない卑怯ものなのですから。
それが分かれば、劣等感の壁をほんの少し崩したことになります。ただ、劣等感を自信に変えるには、自己肯定の体験が必要なのですよ。
自己肯定の前に、正しくない方法について解説です。(これにのめり込む人が少なくないですから)
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劣等感から解放される正しくないバージョンとは、悲劇のヒロインにのめり込むこと
劣等感から解放されようとして悲劇のヒロインにのめり込む人がいます。これが意外にも多いのです。
◆仕事や学業がうまく進まない
◆人間関係で毎日嫌な思いの連続
◆いじめにあっているのに誰にも相談できない
こんなストレスを抱えて生活するうちに、自己憐憫に引きずり込まれてしまうのです。「なんてかわいそうなワタシ」という自分を哀れむ気持ちに呑まれてしまうわけです。
「ワタシは何も悪くないのに」と涙がこみあげてきた後、ハマってしまうのが悲劇のヒロインです。
涙を流すと、ほんわかした幸福感が訪れるのをご存じでしょうか?
悲劇のヒロインは一度、味をしめてしまうと簡単には抜け出せません。自分の意思でのコントロールが難しい依存性のある精神状態です。複雑な味わいがあるのです。
取り囲まれた環境が混みいっていて、こんがらがった糸に手足がとられて身動きが取れないときに悲劇のヒロインと化してしまう。
責任が自分にあろうが、他人にあろうが関係ない。こんなひどい目にあっている自分はなんてかわいそうなんだ、と思った瞬間にある種の幸福感を感じたらヤバイのです。
問題解決は棚上げして自分の感情だけに走ります。
ここに落ちた人は、傍から見ていて一発で分けりますよ。でも本人は悪いことだと気づかない。
自滅に向かっているのに全然平気で悲劇のヒロインを演じ続けるのです。この独り芝居は何かにつけ顔をだし、雪だるま式に膨れ上がっていくのです。
自己肯定の体験とは?
自分で自分を認めるのが自己肯定です。ひとことで言うと簡単なのですが、なかなか奥が深いのです。
「僕は間違っていない、正しい、価値のある存在なんだ」と自分に言い聞かせて日々過ごしているひとは少なくないのです。
不安感に取りつかれながら、それを掻き消そうと自己肯定の言葉を繰り返しているわけです。
こんなふうに頑張っている人、日々努力している人は本当にたくさんいます。でも、それはやり方が根本的に間違っている残念な例です。
漠然として不安感に取りつかれていないかが、「本当の自分と向かい合っていない人」の判断の目安です。
「不安」のすぐ下に「自分嫌い」が横たわっていて、そのすぐ下に「本当の自分と向き合っていない嘘の生活」が何年も放置されているのです。
下から上へと立ち昇っいく(ゴメンナサイネ、うんこみたいにな絵になってしまって)。
この絵の一番下を処理しないと不安感はなくならないのです。
本当の自分と真正面から向き合うと腹をくくらないと何もはじまらないのです。
なぜかは、この記事をご覧ください。
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