知的障害者とともに生きる社会|小規模施設で健常者と交流するのが幸せなの?

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津久井「やまゆり園」殺人事件から1年

 

知的障害者を一般の生活環境に迎えられるのか?

 

ノーマリゼ―ションは実現的な選択なのか?

 

「キミは障害者のことを腹の底でそんなふうにとらえていたの?それがキミも本音なんだ!」


不謹慎で無常な人間と思われるのを
覚悟しなければ、この問題を議論できない。

 

津久井「やまゆり園」で19 人の知的障害者が殺害された事件から 1 年が経過しました。

 

事件後、施設は閉鎖され、知的障害者らは少人数にわかれて小規模施設で暮らしています。

 

障害者を大規模施設で受け入れて生活させてきたのは、もともと国の考えです。

 

しかし、「やまゆり園殺人事件」を境に、新たな考えが出始めているのです。

 

  大規模施設は止めにして、地域に溶け込む小規模施設へと舵をきろうとしているのです。

健常者と交流する生き方に移行させようとしているのです。

 

知的障害者の収容施設が大規模になってしまうと、社会から独立し隔離されてしまう。

 

 

ノーマリゼーションを掲げて、今は障害者も一般社会で普通に生活していく時代にすべきなんだ
というわけです。

 

知的障害者とともに生きる社会です。

 

しかし、やまゆり園に入居していた方々のご家族の思いは、 大規模施設の再開であのです。

 

それ以外に彼らが安心して生活できる道はないと断言しています。

 

新聞の囲み記事は、無責任に「行政による補助制度の確立が重要」と、 綺麗ごとで文面を閉じ全然問題の本質に迫ろうとしない。

 

もともと新聞の社説や囲み記事なんかで云々できるほどあまっちょろい問題じゃない。

 

以下、ご一読いただく方には、後味の悪い記事であることをはじめにお詫びする次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳の機能低下と、「信じろ」の自己暗示が記憶を歪める

 

ノーマリゼ―ション

 

ノーマリゼ―ションを掲げ、知的障害者が普通に健常者と暮らせる環境を築き上げようとする動きがあります。

 

この主張は「障害者」と「健常者」というくくりで社会をとらえるところからきています。

 

人口の約2%が障害をもって生まれてくると統計数値が示していて、 どこの家庭も知的障害者とかかわりをもつ可能性がある、と説いています。

 

だからこそ「多少障害を持っていても普通に生活できることを目指し行きたい」と主張しています。

 

 言いたい事は良くわかるし、確かに理想的な社会なのです。

 

誰かに責任があって障害者が生まれてくるわけではないのだから、 みんなの中で障害者が普通に生活できるようにしたい。

 

でもねえ、これ、難しいですよね。

 

やまゆり園を例にとれば、入居者の8割は「障害支援区分」が6の最重度の障害者です。

 

「多少の知的障害があったとしても、、、、」とはまるっきり事情が違う。

 

それが痛いほど身に染みているのがご家族なんです。

 

だから、家族は、やまゆり園の再開を強く望んでいる。

 

行政は、障害者の存在は理解していますが、障害具合(何ができて、何ができない、こんな状態だと極度に怯えるとか、苛立つとか、我慢できない事があって、、、、)を見切れていない。

 

障害者という「健常者よりも知的水準が低い存在」程度にしか考えてない。

 

「いやいや、ちゃんと理解していますよ!」と反論するでしょう。

 

「障害支援区分」を1から6までに段階的に判断するのを決めたのだって行政だと、胸を張るかもしれません。

 

だから、なんだっ!って話ですよ。

 

ただ区分の基準を決めただけでしょ、と。

 

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「障害支援区分」

 

行政が決めた「障害支援区分」が無意味だとは言いません。

 

車椅子に乗らなければ移動できない人と、立って歩ける人とでは生活環境がガラッと変わりますから、それを基準にするのは賢明な判断です。

 

施設内の廊下の段差とか、廊下の幅なんかにも影響します。

 

トイレや風呂に手すりがあれば一人で大丈夫なのか、それでもだめなのかも、しかり。 ベッドから一人で起きられるか、支えてもらわなければならないかも、しかり。

 

食事だって、自分で食べられるのか、食べさせて上げなければならないのかも、しかり。

 

でも、肝心な社会への適応という観点での検討ができていない。

 

障害者という範疇で、なにができて、なにができないか、を見ているだけなんです。

 

健常者との比較をしなきゃ、意味がないんです。

 

健常者が一緒に暮らす人間に対して求めるのは学習能力です。

 

言った事をどれだけ理解し、覚えてくれるか。

 

約束を忘れずに果たしてくれるか。

 

親しくなれなるほど、要求は高くなっていきます。

 

「昨日話したでしょ。 先週教えたよねえ。何度同じことを言わせるの。」

 


相手が人間だからこそ、
遅かれ早かれこのキツイ言葉への展開する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知的障害者と健常者という一回目の選別の次に、障害度合いで区分しなければならないんです。

 

どのくらい自分一人の力で生活できるのかを見極めなければならない。

 

障害者を知的水準で区分するのは、ご家族にとっては酷なことですね。

 

でも、それをやらないと、前には進まないんです。

 

そして残酷にも、評価されたレベルは一生固定です。

 

まず動きません。

 

頑張っても良くなりません。

 

努力しても知能指数は上がらないんです。

 

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学校教育

 

ノーマリゼーションを取り入れた学校がありました。

 

成功していません。

 

学校という知力を上げるための組織に、知的障害者はそぐわないんです。

 

学校教育には生徒に詰め込まなければならない知識が山ほど積まれています。

 

ゆとり教育は却下されました。

 

限られた時間内に生徒に教え込むのが教師の仕事です。

 

それらを覚えさせながら並行して応用問題に入っていく。

 

読書感想文を起承転結を踏まえて2000文字でまとめ上げるような課題が課される。

 

実験レポートを、実験手順にそってまとめ上げる。

 

文章問題を数式に当てはめて解を導き出す。

 

これらの教育カリキュラムは普通の知的水準をベースに作られているわけです。

 

こんなの知的障害者に対応できるわけがないでしょ。

 

それを周囲が手を差し伸べながら、みんなと同じようにやるといったって、限度がありますよ。

 

共倒れになってしまう。

 

空気が読めないとか、相手の感情の動きを察知できないという理由で、発達障害の子供はのけ者にされるのです。

 

1ヶ月、2ヶ月と接しているうちに、少しずつみんなが離れていくんです。

 

時間との勝負を命じられている教師にしてみたら、「教えたって覚えられないんだから無意味でしょ」という気持ちにもなってきますよ。

 

そりゃ確かに障害者の重篤具合によっては、粘り強く繰り返し教育することで知的レベルが向上する人もいますよ。

 

でも、そえはあくまでも障害者というくくりで見た場合の向上です。

 

それが精一杯なんです。

 

だから、かろうじて健常者に混ざって生きていけるのが、その知的レベルの微妙な向上がみられる人くらいで、試してみるしかないんです。

 

それ以外の人は精神的に押しつぶされてしまう。

 

生活の余力

 

健常者は、普段7割くらいの力で生きていまする。

 

で、その7割が障害者にとってどれくらいに当たるかが問題になる。

 

障害の程度によってまちまちだというのが正解ですね。

 

最初は周囲の健常者も温かい目で見ると思いますよ。

 

でもね、だんだんそれが変わってきます。

 

健常者の世界で一緒に暮らすのなら、できることは頑張ってやってもらわないと、ってみんな思い始めるわけです。

 

無理をしろとはいわないまでも、自力でできることはがんばってやってくれ、と。

 

これが意味するのは、健常者にとって7割のことが知的障害者にとっては手の届かない難題だったとします。

 

すると、せめて 5 割くらいのところまでは頑張らないとね、となってくる。

 

この5割が障害者にとって10割だったら、かれは毎日100%のちからで生活しなければならなくなって、いつしかへとへとになるわけです。

 

周りに多くの障害者がいれば、かれらの全体像がみえるわけです。

 

一人一人の力には差異があって、できる人もいれば出来ない人もいるって感覚が周りにも伝わってきます。

 

でも、それが少人数になってくると基準が健常者へとレベルアップします。

 

だから、健常者のなかにポツンと一人存在する障害者はどんどんキツイ立場に追いこまれていく。

 

電車に乗ってキョロキョロ空席を探したら、2ヶ所あいていた。

 

1ヶ所は障害者のとなり、もう1ヶ所は普通のなんでもない人のとの隣。

 

どっちに座ります?

 

気を使って、出入りの扉あたりで立ちっぱなしになる人がいるかもしれませんが、答えはおのずとわかるでしょう。

 

健常者と知的障害者が日常生活を営む上で、全く同じにやっていることってなんでしょうか?

 

眠る事。 食べる事。 排泄する事。

 

確実に言えるのはこんなところです。

 

犬や猫とも比較しても大差ないでしょ。

口が悪くてゴメンナサイね。

 

でもね、これ事実なんです。

 

これを理解せずに理想だけ追い求めても失敗するんですよ。

 

それでも、障害者と健常者の間の壁と取り壊そうと思ったら、

 

まずは知的水準の高い人から、少しずつトライアル的にやっていくわけですよ。

 

大規模な施設をやめて、とかの議論でなく、地味に様子を見てみるしかないんです

 

すべての障害者とすべての健常者をいっせいに同じ環境に混在させたって何か良い事ありますか?

 

初めから all or nothing じゃ絶対にうまくいくわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして何よりも大切なのは、いままでまれにしか交流することのなかった健常者と知的障害者を同じ環境下で生活させるのはなにが目的なのかを明確にしないと、あっちこちから不満がでてきます。

 

国はノーマリゼーションを目的として、両者のミックス環境を模索しようとしている。

 

これが文化の異なるものどうしを一つの環境かにいれることで、どんな反応が起こるかを見る、という目的であれば納得できると思いますよ。

 

日本人社会に、西洋人を招きいれて、異文化同士がどのようにぶつかりあい、なじんで行くかを見る。

 

しかし、そのノリで知的障害者文化をぶち込んできた場合、それは大きな危険をはらんでいます。

 

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あくまでもトライアル的に

 

理想を求めて行政が動き出す前に、障害者はそんなに強くないと知るべきなんです。

 

行政が考えるよりも弱い存在であることを真剣に考える必要があるのです。

 

理想だけが一人歩きし、今までの大規模施設を解体することに障害者が耐えられるかどうか。

 

それを行政の補助という名目で棚上げしてしまったら、実効性についての検証にはならないのです。

 

障害者の為を思って動き出す行政が、逆に彼らを窮地に追い込む。

 

 ただ、そのトライアルが上手く機能しないと判断したなら即、中止する覚悟も事前にもっておかなければならない。

 

今は、あくまでもトライアルであることです。

 

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