運を味方につけるスイッチは脳の中:使い方次第で運は最強の武器となる

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運の大きさ

最大級の幸運を目の前にして、自ら遠ざける人って案外多いのです。

運にのっかるんじゃなくて、運を恐れてしまうんですねえ。

大きな運が転がり込んでくると、ラッキーと思わずに、むしろ心配になってしまう。

こんなもの手にしたら、きっと後でバチが当たる違いないと、自ら遠ざける。

誰にとっても心地よい運の大きさとはどんなものか?

心地よさなど無視して、目の前の運をすべてつかんでしまうのはいけない事なのか?

 

人生、幸運と不運はプラマイゼロ

初詣で何を祈願されますか?

家族の健康、交通安全、商売繁盛などの一般的なお願いと、

受験を控えている学生さんやその家族は学業成就を御祈願されるでしょうし 、

趣味で釣りにはまっている人は大物捕獲、

懸賞応募が好きな人は世界一周の旅が当たりますようになどのお願いをするのでしょう。

この中で、家族がみんな健康でさえあれば、あとは何も要らない、と祈願するタイプの人の話です。


幸運と不運はプラマイゼロと考えている人って少なくないんですよ。

 職場で大きな手柄をたてたり、学校のテストで高得点を叩き出して、 同僚や級友にこんな風にからかわれた事ありませんか?

「あ~あっもったいね~なあっ、こんなところで運を使っちゃってさ」

実力でなく運で稼いだ功績という冗談なのですが、 その裏には人の一生の運は有限なのだという前提条件が隠れています。

おおよその日本人ならこれを冗談と受け止めることができます。

運が有限であるという説を、反対、賛成は別にして、知っているからです。

人の運が有限で、誰にとっても平等というのは、世の中の格差を見れば一目瞭然、ありえない話です。

それでも、どこか人の心をホットさせ、それなりに説得力があるのです。

 ここで気の利いた反論ができる人は運の有限説をうまく操っていると言えるでしょう。

「心配ご無用だね。今朝、登校する途中で犬のウンコ踏んじゃったから、これで帳尻あっているんだよ」と。

電車で座れないかわりに

 

先ほどの登校途中で犬のフンを踏んづけたのは、まずウソの発言に違いないですね。

そうやって運の有限説をおもしろおかしくクラス全体で共有した冗談なのです。

ワタシは勤め先まで自宅から電車を乗り継いで2時間先にあります。

運が良ければ電車で空席を見つけて座ることができますが、運ないと2時間立ちっぱなしなのです。

誰が座席から立ち上がるかはわからない。

どの人の前に立っていたら座れるかわからないのですから、だれにとっても運は平等に漂っているといえます。

ときどき、ワタシみずから運の有限説に参加していることにふっと気づくのです。


それはサラリーマンとしてはちょっと緊張の日。

取引先の会社に出向き、新規の仕事についてプレゼンテーションをするような日です。

            

 

 

 

 

 

もし出勤の電車で空席が見当たらず、2時間立ちっぱなしの目にあえば、きっと運を味方につけられるだろうという暗示です。

座れなかった不運と引き換えに、プレゼン成功という幸運が転がり込む思考回路です。

これが、なかなか効果があって、プレゼンでアガリもせずに堂々としゃべれたりするんです。

使い方次第で最強の武器になるわけです。

「空いた席があるにもかかわらず、我慢して座らずに耐える」では運を味方にはできないのです。

あくまでも、自分の意思とは別に、不運にとらわれるのが条件です。

そうでなければ、誰にも平等である運の、帳尻合わせにはならないからですね。

斜め右の席が空いて、その前に立っていた人が座る。

斜め左の席が空いて、その前の人が座る。

でも自分の前だけは延々あかないのがいいのです。

  目の前があいたときにお年寄りに席を譲る。これはかなりの高得点かと思えるのです。

歌手や芸人の一発屋などをみて、
「あの曲で、あのギャグで運を使い果たしちゃったね」
なんて会話しますよね。

身近な話題でも、「ついに来た~!モテ期」とか「人生でモテ期は三度おとずれる」とか、「わしゃ太く短く生きるのじゃ!」とか、運の有限説を後押しする傾向があるように感じるのです。

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有限説には平等感が宿っていますから、いい意味で説得力がありあすし、事がうまく運ばないときに寄りかかりたくなるのですね。

 

運を流れとしてとらえる

 

それとは真逆に、スポーツ中継などを観戦していると、運を流れととらえている解説を耳にします。

「ここで一本でれば、流れは完全にジャイアンツですね(すみません、巨人ファンなのです)。

ようやくジャイアンツに運が回ってきました。

2点ビハインドですが、3者連続ヒットでノーアウト満塁」なんて具合です。

これはまさに、運にのっかる、味方に付けるという考え方です。

運が運を呼ぶという博打打ち的な考え。

  ここで一本、タイム―リーヒットがでたら、次の回に相手チームがホールランを打つなどと運を恐れたりなどしないわけです。

運を味方につけるスイッチは脳の中にあるのです。

 

運をビジネスのネタにする

 

何かの雑誌で読んだドキュメンタリー記事です。

とある啓発セミナーの勧誘説明会の一幕です。

会場前方にセミナーの主催者代表が登場し、簡単な挨拶の後、こんな風に参加者を誘導していきます。

「セミナーの説明に入る前に今から5分間、本日の参加者の方々どうしでお話しをしてみてください。できるだけ多く方とコミュニケーションをとるようにしてください。話題は何でもかまいませんよ」

5分後
「はいストップ。時間で~す。何人の方とお話しができましたか?一人の方?二人?三人?、、、」

  たったの5分間、しかもまわりはほぼ全員初対面です。

多くて3人がいいところではないでしょうか?

ここで主催者代表の決めのセリフです。

「ハイ、これが今のあなたの人生なのです」と。

「これから、このセミナーに参加し人生を豊かにしていきましょう。ほんの数人だった仲間を10人、20人と増やすすべを学びましょう。運命は切り開いてゆくものなのです」運の有限説とは異なった切り口。
 

「今のままじゃ、あんたの運命も知れたもの」とういう運命固定説をうまく逆手にとったビジネス展開なのです。

 

大病を患わないためには

 

電車での空席と少し似ていますが、「ここまで悪化すると」という例です。

心気症という精神疾患があります。

自分は病気ではないか、と思い込んでしまう精神的な病です。

病気ではないかと体のあちこちを探し回れば、たいていの人は一つ、二つ不調気味の部分が見つかるものです。

最近よく眠れないとか、便秘気味とか、駅の階段で息が切れるとか、妙に胸焼けするとか。

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インターネットや専門書で自分の症状を探しあて、病院まわりを始めるのです。

診察の結果、どこも悪くないといわれると、別の医者へとドクターショツピングが始まってしまう。
きりがないのですね。

そうこうするうちに、本人も心気症という精神疾患がこの世に存在することを知り、我が身がこの病がこれであると気付くのです。

しかし、そこで終われば話は簡単なのです。

わかっているけど「でも本当は病気なのでは?」と心の疑念は晴れない。

「病気なのでは?」と本人が思っているのではなく、
ニュアンス的に言うと「病気なのでは?」と思わされている、というのが正しいのです。


                            

 

 

 

 

そんな彼らがとる方法のひとつとして、みずから風邪を引いてみたり、足首を捻挫してみたりするのです。

不運を自ら招きいれることで、それ以上悪いことは起こらない、というマジナイ的考えかた。

ごく普通の病を患ってみたり、軽いケガをしてみたりすることで、大病を避けようとする、運の有限説にのめり込んでいるのです。

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