精神鑑定の結果、津久井やまゆり園事件の犯人・植松聖は自己愛性人格障害と診断され、犯行時に責任能力ありとして起訴される事になりました。
あたりまえと言えばあたりまえ。
ただ、自己愛性人格障害がいかなるものなのかが気になります。
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自分の周りを見回してみて、自己愛、自尊心、自己肯定が欠落した人はまずいないでしょう。
それらが備わっていてこそ、人間は正常に生きて行けるのですから。
いっさいのプライドをかなぐり捨てて、死ぬ気で当たらねばならない事もあるでしょうが、それは生活の中のごく一部の場面でしかないですよね。
だいいち、身がもちませんから。
普通に歳を重ねてゆく過程で、幾つもの問題にぶつかり、自己愛・自尊心は傷つけられるものです。
鏡の前で何十分も前髪をいじりつづけるナルシスト、優等生にありがちな思い上がり系、奇をてらった行動で注目を集めようとする
目立ちたがいり、、、、等々。
こういった事を他人から指摘され、周囲に気づかれていたのかと赤面しながらも、多かれ少なかれ自己愛が客観的にまともな許容範囲へと我が身をスライドしてゆくのです。
植松聖の生い立ちを見てみると、自己愛性人格障害へと精神が変調をきたしたのはいったいいつ頃だったのかと疑問を持たずにはいられないのです。
挨拶のできるハキハキしたお兄ちゃん
↓
教員の父の影響で教師を目指す
↓
教員試験に不合格
↓
養護学校の教員に目標転換。その準備として津久井やまゆり園に就職
↓
やりがいをもって仕事をするも、だんだんと患者との間に溝。患者から不条理な言動↓
町の不良との付き合い。刺青
↓
犯行
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変調をきたした起源は横に置き、犯行のタイミングにスポットライトを当ててみると、次の①か②のような満足感を得たのではないかと推測されます。
① 殺害→これで重度の障害者から解放される人が増えた→世界が平和に一歩近づいた →自己愛が満たされた
② 殺害→手厚く介護したのに、恩をあだで返す奴らを消した→人に迷惑をかけたのだから当然→自己愛が満たされた
教員試験に合格できなかった時、いったんは挫折を味わうも自ら一歩進んで養護施設の教員を目指ざしたのは前向きの理想的な行動ととらえられる。
しかし、その準備として就職した先で、障害者との間で行き違いがあった。
最初は精一杯頑張って養護していたが、期待していた感謝が得られなかった。
それどころか、重度の障害者から理不尽な言葉を浴びせられた。
普通の教師であったなら、こんな目には合うはずがないと被害者意識が膨らんできた。
そんな矢先、植松は別の世界を目のあたりにする。
このタイミングで不良・チンピラなどとの付き合いが始まる。
世の中には、こんな世界もあるのだと裏社会の存在を知ってしまった。
こっちの世界でのし上がっていくのなら、教員免許などいらない。
養護施設の教員になるための下済みなどもいらない。
いっきに、つらい不条理な現実から逃れ、新天地にたつのも悪くないと考えたのだろう。
箔をつけるために刺青を入れた。
後戻りできない覚悟というよりも、一連の不幸な流れから別の方向へと流れるように。
教員という目標など跡形もなく消してしまうためにも奴らにケジメをつけてやらねばなない。
ましてやこれから裏社会で生きていくのだから、トラブルの一つも起こしておいたほうが都合がよいのだ。
植松を犯罪へと駆り立てたのは、前述の②に近い心情だったように思えます。
自己愛性人格障害が内在的な性質として彼にそなわっていたとしたら、教員免許を取得して教師になろうが、遅かれ早かれ生徒と摩擦を感じ、絶望に追い詰められたのではないでしょうか。
あの、ハキハキとしてお兄ちゃんも植松の横顔の一つではあった。
でも、それを貫くだけの精神力が備わっていなかった。
歪んだ自己愛がゆえに、悲しい結末に追い込まれる運命にあったのかもしれない。
この後、起訴され裁判が執り行われます。
まず、死刑以外の選択は無いでしょう。
懲役刑から教育刑に移行すべきと、受刑者の刑期の過ごし方が変わる方向にあります。
でも、植松聖には、教育刑は適用されないでしょう。
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