起こるべくして起こったパニック障害

Pocket

パニック障害者にとって飛行機ほど怖いものはないのです。

 

絶対、途中下車できないですから。

わたしの場合、飛行機だけじゃなく、新幹線、特急列車、遊園地の観覧車、号故障でとまってしまった電車すらも恐怖の対象でした。

 

 

自宅から遠く離れたところに行くのも怖かったのです。

 

まるで、毎日が今にもひび割れしそうな薄い氷の上を歩いているような心境でした。

 

パニックモードに突入する直前、ああ、きたきたっていうふうに自覚できます。

 

そこで、とどまれるか、パニックモードに入ってしまうかで天国と地獄。

 

いつからパニック障害に陥ったのか?

 パニック障害って今でこそメジャーな疾患として知られていますが、20年以上も前にわたしがかかった時は、知名度は低かったと思います。

 

 

今思い出すと、パニック障害との診断を下される前に、何度かその兆候はあった。

 

それでも病院に行こうと決断しなかったのは、パニック障害の知名度の低さだったのかかもしれません。

 

 

どんな兆候?って知りたくなりますよね。

その兆候とは、閉所恐怖症です。

記憶の糸をどんどんたぐり寄せると、小学校まで遡ります。

 

そんな昔って思われるかもしれませんね。

でも嘘じゃないですよ、本当の話。

嫌な思い出って鮮明に覚えている。

脳ミソに染み込んでいて、もう取り除くのは不可。

でもね、今は客観的に見れるのです。

手のひらや、脇の下に汗をかいたりすることもないし、心臓がドキドキするようなことも全く無い。

 

 

良い思いでとは間違っても言えませんけれど、自分の特性なのだと思えるようになったのです。

 

 

で、どんなシチュエーションでパニック障害の前兆を体験したのかをご説明しますね。

 

小学校5年生。

学校の教室にあった縦長のロッカーで遊んでいるときでした。

 

友達ら6,7人が、二人一組になってかわるがわるロッカーに入ります。

 

残りがロッカーの側面に開いている空気穴のところで黒板消しをパンパンはたき、中をチョークの粉煙で充満させるという遊び。

 

 

一番長く耐えられた人が勝つという実にくだらない遊び。

ワタシともう一人の友達とでロッカーに入ったのですが、ほんの数秒で異変が起きました。

 

 

なんか嫌な気分と思った瞬間にカッと頭に血が昇って、パニック状態です。

 

あわてて内側から扉を開けてくれと叫んだ。

 

でも、みんなワタシが冗談でいっていると思ったみたいであけくれない。

 

だってまだ黒板消しをパタパタしていないですから、ギブアップするには早すぎるわけです。

 

ワタシは半狂乱のようにロッカーの内側を叩きまくった。

ようやく異変に気付いたらしく解放されたのです。

大丈夫か?

うん、なんとか。なんか急にさ、怖くなっちゃって、、、。

 

普通、パニック障害っていうと、その症状は心臓がドキドキしていまにも止まってしまうのでは、という恐怖と言われているじゃないですか。

 

ワタシの場合は心臓ドキドキなんてまったく気にもならなかった。

後頭部が急に熱くなり、なんともいえない嫌な気分が広がるとともに、太ももの筋肉がガチガチに硬直し、今にも頭が狂いだすのではないかという恐怖。

 

 

その時はパニック障害という病気も、そんな言葉自体も知らなかったから、狭いところがダメなんだ、と自分の特性のひとつとしてカウントしたのみでした。

 

 

それ以降、パニック発作が起きるたびに感じる症状は一貫して『後頭部が急に熱くなり、なんともいえない嫌な気分が広がるとともに、太ももの筋肉がガチガチに硬直し、頭が狂いだすのではないかという恐怖』でした。

 

 

 

 それからだいぶ月日は流れますが、中学生のときに1度パニックに教われました。

 

閉所恐怖症とは無関係で、数学のテストの時間だったのです。

 

なぜ、あの場目でパニックに襲われたのか、と自分で振り返ると、焦りだったように思えるのです。

 

計算の因数分解の小テストで、3問くらい連続で解けない問題が続きました。

 

皆さんにも経験あるかもしれませんね。

 

その時、急に後頭部がカッと急に熱くなり、あの嫌な感覚が広がるのを感じました。

 

思わず、その場で席から立ち上がりそうになったのを気持ちで押さえつけ何とかやりすごしたのです。

 

 

ほんの30秒程度だったのではないでしょうか。

間違いなくパニック発作でしたが、短時間で受け流すことができのです。

 

 その次が、高校1年生のときの柔道の授業でした。

通っていた公立高校では、柔道が必修科目で1週間に1度だけですが、柔道の授業があるのです。

 

 

想像がつくかたいらっしゃるかもしれませんね。

寝技で押さえ込まれたときがダメなのです。

身動きできないあの状況がダメ。

何とかして逃げようともがくのですが、寝技はがっちり固定されてしまうと多少手足が自由になるだけで、体を起こすことなど到底できない。

 

 

なんとも表現のできない閉塞感が耐えられないのです。

 

地震なんかで瓦礫の下敷きになって身動きが取れない状況に直面したらきっとダメでしょうね。

 

手錠で両手を繋がれたり、ある場所から逃げられないように括り付けられたら、これもまたパニックに陥るでしょう。

 

 

柔道の授業は寝技が全体のごく一部で、ほとんどが立ち技や受身の練習に時間が割かれていたので単位を落とすという事はなかったのです。

 

 

3年生の冬、受験勉強も大詰めになってきたある晩、いつもどおり自分の部屋で勉強している最中、パニックに襲われました。

 

 

その時の症状はいつもの、『後頭部が急に熱くなり、なんともいえない嫌な気分が広がるとともに、太ももの筋肉がガチガチに硬直し、頭が狂いだすのではないかという恐怖』。

 

 

受験日まであと1週間とか、そんなストレスフルな状況下だったと記憶します。

 

確かに不安な感情に四六時中まとわりつかれ、息が抜けないというか、立ち止まれないというか、そんな気分の毎日だったのです。

でも自分では受験なんてそんなものなのだろうと受け入れてはいたのです。

 

しかし、その夜に限ってパニックに襲われました。

 

それも“閉所恐怖症”や“身動きが拘束された体勢”を自分の特性だと思い込んでいましたから、それらとは異なる状態下でのパニックだったことにショックを受けたのです。

 

 

とっさにベッドで頭から布団をかぶり、身体を丸めてブルブルと震えていたのを覚えています。

 

あの振るえは、今思うと前身の筋肉の硬直だったのかもしれません。

 

いてもたってもいられない、あの状態で、よく耐えられたものだと思うのです。

 

パニックは、たぶんせいぜい3分~5分程度だったでしょう。

受験期間を通してのパニックはその1回だけだったのが、不幸中の幸いでした。

 

ただ、受験は二度と出来ないと、そこで心に決めたのです。

 

それくらい大きなショックでした。

 

大学4年間はパニックを起こすこともなく、平穏とはいえませんが、健康体で過ごすことが出来ました。

 

 

 そして、就職後の、社会人2年目、24歳。

 

中国・上海への一人旅でまたまた、パニックに教われました。

 

無謀な旅といえば、無謀です。

当時の中国は日本よりも30年ほど遅れているといわれていました。

ガチガチの社会主義国で、街には人民服を着た人たちがあふれていました。

 

そんな中国の生の様子をみたくて、成田・上海の往復格安チケットだけを買って、上海に飛んだのです。

 

 

社会主義国は、日本と全然違いました。

完全に甘くみていました。

上海虹橋空港からタクシーで市内の大きなホテルに向いました。

 

予約なしの飛び込みで宿泊するつもりだったのです。

 

立派な外観のホテルの受付。

予約していなけれども空いている部屋はありますか?と英語で尋ねました。

 

『没有(メイヨ)』とニコリともしない受付嬢。

サービス精神のひとかけらも無いのです。

いまの中国でも、その雰囲気は残っていて、気分を害される宿泊客が多々いるようですね。

 

満室か、とそこを諦め次のホテルへ。

 

そして再び、『没有(メイヨ)』です。

 

これを3件繰り返しました。

段々と日も暮れはじめ、悪いことに雨が降ってきた。

泊まる場所も確保できず、ホテルの受付はなんら助けてくれる様子はない。

 

近くにどこか泊まれそうな宿はないのか、と尋ねても『没有(メイヨ)』です。

 

英語は通じていないのだろうと思いました。

何を聞いても、有りません、の一点張り。

ここで、パニックに襲われたのです。

冷静に対応しなければならないところで、パニック。

 

タバコを取り出し、その場で火をつけて気持ちを落ち着けようとしても自分ではどうにもならない。

 

 

叫び出しこそしないまでも、カッとなった首筋と後頭部。

ガチガチに緊張した太もも。

膝がガクガク震える出しそうなのが自分でも分かるのです。

ヤバイ!!と思った瞬間に、 「日本人?」と20代後半の男性が声をかけてきてくれたのです。

 

 

涙が出そうなくらい嬉しかった。

助かった、と思いました。

 

静岡県からきたという4人組みの若者らが宿泊しているホテルに泊まることができるようになったわけです。

 

パニックの回数は少ないものの、パニックを起こす素養が自分にあるのは間違いないですね。

 

 

いま、こうして小学校からのメンタルをもう一度見つめ直すことで、自分の問題が明らかになりました。

 

でも、実際の自分はこの中国旅行でのパニックを体験してもなお、一向に気付くことなく、なるべくしてパニック障害にのめりこんでいったのです。

 

 

タイのバンコックに仕事で行った帰りの飛行機搭乗直後です。

今でも忘れませんし、たぶん、一生忘れないでしょう。(忘れられれば、とっくにパニック障害から抜け出せているでしょうね)

 

 

チェックインして搭乗口近くの待合シートで時間をつぶしているまではなんともなかったのです。

 

搭乗案内で機体に乗り込むときもなんともなかったのです。

 

荷物入れあたりの座席番号を目で追いながら奥へ奥へと進みつつ、5時間もここから外にでられないのか、、、とそんな当たり前のことが頭をよぎった瞬間、じわじわっとあの不快感に襲われたのです。

 

 

不快感を払拭するように鞄を荷物入れに押し込んで、シートに腰を下ろしました。

 

太ももの筋肉がガチガチに固まっている。

とっさに立ち上がり、トイレに向かいました。便座にすわり用を足せば落ち着くかと考えたからです。

 

 

当然、気持ち変化など起こるわけもなく、自分の席にもどったのでした。

 

たぶん、そこでパニック発作だと回りにうったえれば、精神安定剤を持っている人、もしくは機内にクスリが常備されていたのかもしれないのです。

 

 

あんなに何度も苦しめられたにもかかわらず、それぞれの発作からは数分間で回復していたため、深刻とらえることもなく、パニック障害について知ろうという気持ちになっていなかったのです。

 

 

 

このときはかなり苦しみました。

機内食など食べる余裕もなく、いっそのこと飛行機が墜落してしまったらどれだけ楽だろうと考えたくらいです。

 

隣の席の女性が気を使ってくれて、たまに声をかけてくれたり、アスピリンをスチュワーデスさんから貰ってくれたりしてくださいました。

 

アスピリンは全く効果ありませんでしたが。

そして、5時間みっちり汗をかいて成田に到着したとき、一生飛行機には乗れないと痛感したのです。

 

 

つまり、この時点ですら飛行機にさえ乗らなければパニックにはならないと考えていたのです。

 

実際、飛行機から降りてしまえばなんともなかったのです。

 

 

それから2週間くらい経過したある日の夕方、遂に電車に乗れない状態にまで行ってしまったのです。

 

 

新宿で友人を食事をした帰り、中央線に乗ろうとした瞬間に、いきなりパニックに襲われたのです。

 

 

咄嗟に、電車から飛び降り、電車を見送りました。

次の電車が来てもとれも乗れる状況ではありません。

御茶ノ水まで快速で行こうと考えていましたが、各駅停車にかえてとりあえず一駅だけでも進むこととしました。

 

 

発作が起こっている最中はなにから何まで怖いものだらけです。

ほんの十数分の数駅を、1時間近くもかけて戻ってきたのです。

家に帰って両親に、うちの家系に頭の狂った人がいなかったかと真面目に聞きました。

 

 

自分の頭が狂い始めたと感じたからです。

 

そして、翌日会社を休み、近くに病院に行ったのでした。

 

その病院から、専門医のいる別の病院を紹介され、初めて正式に通院することになったのです。

 

 

その病院で受けた検査は、問診表、MRI、細かいチェックシートのようなもの。

 

診察の結果として、パニック障害とは言われこそしませんでしたが、おそらくそうなのでしょう。

 

 

処方された薬が、デパス、ルジオミールの2種類を1日3回、朝昼版と飲むというもごくごくシンプルだったのです。

 

 

ここから長い、長いパニック障害との闘いが始まるのです。

 

 

 次回は、パニック障害を克服するために何をしたかを記事にさせて頂きたいと思います。

 

 

 

Website Pin Facebook Twitter Myspace Friendfeed Technorati del.icio.us Digg Google StumbleUpon Premium Responsive

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*